認識について

「もののあわれを知るということは、人間の認識のもとだ。

ぼくが君という人間の性格を知るということは、

君という人のもののあわれを知るということです。そういう君を認識することです。

でもたとえば僕が生物学者として君を解剖することは、君の性格を抜かしちゃって、

…きみを認識するということではない。

科学は、非常な役割をはたしている。

でも人間の生活がどういう意味合いであろうかということについては、

科学はちっとも役に立たない。」
小林秀雄のいうところの、簡単に行動にうつしてしまう現代人の私はやはり、
グローバリゼーションとインターネットの恩恵を受けて、
まるで簡単にチェコという異国に暮らしている。
日々の生活の中でも、私にとってインターネットは情報源のほぼ中心に、
とうとうなっている。
近日、わたしがめぐりあって感化された小林秀雄のこの認識を、
やっぱりインターネットで得ているというこの状況。
恩恵はほんとうにばかにならないほどある。
でも、科学は認識を、手伝ってはくれない。
人間は、自分の五感で認識していくことを、怠ってはいけない。
君という人間の性格をしるということは、時間がかかるし、誤解も偏見もはいるし、
感情を揺さぶられることを含んでいたりもする。
だから面白かったり、心動かされたりもする。
他人からの自分に対する認識に、魔法をかけあうSNS時代。
生身の付き合いだけだった時代には、誤解や不理解を、
互いの存在から発する情報で、複雑怪奇に調整していけた。
(そこに他の人たちやいろんな偶然や出来事がドラマチックに介入しながら)。
今はデジタル上で魔法をかけあう分、以前よりも個々人の偏見や思い込みがつよくなり、そしてやっかいな形の競争心を、ともするとあおられがちかもしれない。
人によっては生身よりもデジタル情報が上回っている場合もある。
そういう中での「君という人間を情報として知ること」と、「生身の交流から君を知ること」には、
たしかに違いがあることを、自覚していたいと改めて思う。
情報も便利で時に重要で、だれもが自己発信をできるこの時代、おしゃれを楽しむようなわくわく遊びにもなり、それを自分の流れにうまくつなげるという意味では、よい側面にだって活用できる。
けれど、人や自分に関する「認識」においては、生身と生身でキャッチした事柄を、私はもっとも信じたい。ファッションをまとった君をみることは、君のセンスの表明で、スパイスのかかったおいしい君で、それを含めて君の全体像なので、それはそれで正しい。
ただ私は個人的に、きっとそれぞれのいろんな特徴のある裸の体からのメッセージの方が、そこから受ける印象の方が、わたしの腹にはもっと納得がいく。という好みの問題かもしれない。
君という人間が発するもののあわれは、情報とは異質のものである。
もののあわれは、思い込みや偏見を越えたところではじめてキャッチできるのだろうと思う。
そういう感性を、この時代にも豊かにしていきたいものだと、
小林秀雄の認識を知るにつれ、思ったのでした。

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